火垂るの墓はミステリー映画だった!?(ネタバレ注意)
子供の時から何度も見てきた映画で、見るたび兄弟がかわいそうでわんわん泣いて
あの親戚のおばはんに苛立っていました。そして戦争反対!と叫んでいました。
世間一般の感想もほぼ同じようなものではないでしょうか。
しかし最近、岡田斗司夫さんのYou Tube(無料)を見る機会があり、どうもそれは
監督/高畑勲氏が意図するところと違うらしいのです。
それは冒頭で登場するもうひとりの清太。彼は成仏できてない幽霊であり、
その理由を探るミステリー映画だと。
確かにこの映画のシーンシーンで現代を写すシーンがあり、彼は40年近く霊として彷徨っているような描写がされています。
私の解釈ですが、この映画は全編通して「やめとけばよかった」「言わなければよかった」と後悔している清太の視点になっているのではないかと思います。
つまり我々は幽霊清太としてこの映画を見ている。
そういう視点で再度この映画を再視聴して、気になった点あげてみました。
①みんな大嫌い親戚のおばさんも、最初から嫌な人ではない。
というのもこの人、最初から徹底して悪い人ではない、むしろいいおばさんなんです。
それがああいう対応になる何か明確なものがあるはずと。
そうして見てみると、気になった点がありました。
- 居候なのに、清太が亡き母の貯金で散財している。(七輪・櫛・傘)
- 清太が自堕落な生活をしている。(隣組の防火活動などに参加していない)
- 上記があったにも関わらず、オルガンで遊んでいる。
またこのおばさんは一貫して理路整然としており、
- 清太達と同様に、自分自身も白米ではなく雑炊を食べている(働かざる者)
- 清太の母の形見の着物を売ろうとするが、既に自分自身のものは売っている。
この人、やや言い方はきついものの全て正論を吐きます。
戦時中という厳しい時代であるからこそ、おばさんはみんなで平等に律するべきだと考えていたのでしょう。
②清太は贅沢育ちでプライドが高い。
おぼっちゃまなのは母との回想シーン他で、カルピスだアイスクリームだ天ぷらだ贅沢品が言葉に出てくる辺りで分かります。
そして何より、清太が横穴生活をしだした後、親切に野菜をくれていた第三者の近所のおじさんの言葉です。
「それやったらやっぱりあの家におかしてもろうたほうがええ。第一、今は何でもかんでも配給やし、隣組に入っとらんと暮らしていけん。な?よう謝ってあそこにおかしてもらい」
非常に親切です。このおじさんからは全く邪気が感じられません(笑)
しかしながら、清太はそれを素直に聞かず、素っ気なく去っていきます。
③食べるという欲求には勝てなかった。
栄養失調で死にかけている節子のために、清太は米や鶏肉で雑炊を作ってあげます。
しかし節子は食べることも出来ず死んでしまいます。
しかしよくシーンを見ると、その雑炊のお皿はカラになっており清太が食べてしまっています。
節子が死んで手につけれそうもないものも、やはり食べる欲求には勝てなかった。
そして節子が死んだ後でも、おにぎりをもぐもぐ食べる清太のシーンがある。
食の欲求には勝てなかったということでしょう。(誰でもそうだとは思うけど・・・)
以上です。
これらはあくまで、清太自身の視点からで、私自身の良い悪いではないので悪しからず。
一応個人的には、清太はこの時まだ14歳。中学生の子供にそこまで高い意識を求める事は難しいのではないかと思います。しかし一方で、清太の言動一つで2人が生き延びれた可能性があるのも事実かなと思いました。
結論:でもやっぱり泣いてしましました。なぜなら、節子が被害者でかわいそうなのは変わりないから。
今回このように違う視点で映画を見ることも、すごく勉強になりました。
いずれにしても、僕が中学生の頃といえば、雪見だいふくを食べながらゲームボーイをしていました。清太に対しても頭があがりません。
効果絶大!ストレスが溜まった時の散歩法【対話散歩法】
今日は少し変わってるけど、ストレスが溜まった時の効果絶大な散歩法を
紹介します。
例えば、今日は久しぶりの休日。コーヒーを飲みながらマンガでも読んで
ゆっくりと過ごしたい。
そこへ子供が朝からブロックをカチャカチャカチャカチャ・・・
テレビからはアニメが大音量でワイワイガヤガヤ・・・
加えてブロック見てくれ見てくれの猛攻撃。
「すごいなー」笑顔は作ってみるけど、今にもストレスで爆発しそう。
こんな状況になったら、私は外に散歩に出かけます。
普通こういう時の散歩法としては、好きな音楽を聞いてみたり、キレイな景色を見たり、いわゆる気分転換の一つとして行うでしょう。
私のは違います。
今あるストレスを洗いざらい、私自身に相談します。
意味が分かりませんよね・・・説明します。
これはあくまでイメージなのですが、頭の中で座布団に座っているもうひとりの
自分を思い描きます。ゆったりとした甚平を着て、ニコニコ笑って待っています。
そこに対峙して自分もゆっくりと座ります。以下は対話イメージです。
私②「どうしたんですか?」
私「今日は朝から子供がおもちゃでガチャガチャ遊んで、それがうるさくて今にも怒鳴ってしまいそうなんです」
私②「それは大変ですね。1週間頑張ってせっかくのお休みなのにゆっくり出来ませんね」
私「そうなんですよ。我慢しようとは頑張るのですが・・・」
私②「分かります。私も同じ立場なら同じようにストレスを抱えているでしょう。」
私「ありがとうございます」
私②「しかしながら、厳しいながら言わせていただきますとあなたが選択して授かった子供であることは分かりますね。」
私「分かります」
私②「自分の時間も当然大事ですが、自分の子のお世話をする義務からは逃れられません。であればこういったのはどうでしょう。ブロックは○○時までなら見てあげれるから○○時まで。後は私はお休みだからゆっくりいたいと丁寧に子供に伝えてあげる。
私「私のしたい事と子供のしたい事の折り合いをつけると」
私②「そうです、その上で子供がわがままを言えば叱るべきですし、聞いてあげる必要もないでしょう」
こんな感じです。詳しく解説すると
上記青色=【自分としての立場】※自分が分かって欲しい部分
上記赤色=【親としての立場】※親として子供にするべき部分
となっており、その両方を実現したいという思いをジレンマとして抱えて
結果ストレスとなっています。
(実はストレスの多くは、誰かに攻撃されたなどの一方通行でなく、
このような思いの板挟みが原因です)
上記青色下線=【解決法】※そのジレンマにどう折り合いをつけるか
となっております。
これ実は、対話して出たきた答えではなくて、
自分自身が初めから分かっている答えなんです。
それを一つ一つ頭の中で整理をしているだけなんです。
ストレスや怒りは、頭の中が部屋だとするとぐちゃぐちゃに汚れている状態です。
どこが整理されていないのか分からなくなっているんです。
それを自分との対話形式によって頭の中の片付けをしているんです。
気分転換として音楽を聞いたり、景色を見て散歩したとしても
汚れた頭の中から一時的に離れられても、部屋が整理できる訳ではありません。
散歩するという歩く行為は、意見がポジティブになりやすく
頭の整理がよりスムーズに進みます。
ストレスや怒りは根本治療をしなければ解消はしません。
だからストレスが溜まったり、怒りそうになったら
一人になって徹底的に自分の頭の中で対話することをオススメします。
ただこれを他人に話すと100%ひかれますのでご注意を。
自分の機嫌は自分で取ろう!(一番最強の自己啓発術を紹介します)
色々な自己啓発本を買って読んでいると、
・上司から好かれる報告の仕方
・妻と円満に暮らす話し方
・嫌いな人と上手くやっていく笑顔の作り方 などなど・・・
あくまでストレス対策の対象を他人に向けたものばかりだ。しかしある疑問が浮かぶ。
他人の心を誰かがコントロールすることが出来るのか。
アドラー心理学の言葉でいえば、他人が言動をどうするかは他人の課題なのだ。
それを誰かがコントロール出来ると考えるなど、傲慢も甚だしいし、何十年もかけて
構築してきた人間性をそう容易に変える人などいないはずだ。
上手くいかなければ「私が正しいはずなのに誰も分かってくれない。」といったように
怒りや悲しみを生み出す。
最近、私はとてもいい言葉と出会った。
【自分の機嫌は自分でとればいい】
後述するがこれが私が今まで出会った自己啓発術で過去最高だと言い切れる。
誰も分かってくれないなら自分自身が分かってあげればいい。
シンプルに【自分の分かって欲しい感情】【かけて欲しい言葉】は自分が一番分かっているはずだ。正解は他の誰でもなく自分の心が知っているのだ。
○一生懸命営業に取り組んだが、上司は叱ってばかりで認めてくれない。
▶ 誰よりも努力したのは自分が一番良くわかっているはず。
「結果はいつか必ず出るから大丈夫」こう心で念じるのだ。
俺はバカだ。辞めたい。駄目人間だ。とネガティブに堕ちていくよりも
ポジティブに変換して自分の心に答えてあげる事が一番健全だ。
他人を大事にすることばかり考えず、自分のことは自分自身が一番大事にしてあげるべきだ。
このように自分の機嫌を自分で取れば、驚くほどスッと心が軽くなるはずだ。
騙されたと思って是非試してみてほしい。
そして自分が上機嫌になってこそ、他人の心がほんの少しだけ変わるかもしれない。
そう考えながら、今日もアイスの実の2袋目を食べている。
ほめるという事の効用について
ほめるって何だろう・・・
今日は休日なので図書館で本を20冊借りて読んだ。
「phaさんの知の整理術」「斎藤考さんの読書のチカラ」「カーネギーさんの人を動かす」・・・ある言葉が共通項として書かれていた。
人をほめる事の有用性だ。
さて、【誰かをほめる】ということは、中年サラリーマンの私にとって何なのか。
上司に評価される為のものか、部下に好かれる為のものか、夫婦仲をより円満にする為のものか。
いやそれはあくまで副反応的なものだろう。
私の結論:ほめるの効用は、自分自身の心が研磨される事である。
例えば部下がいくつも注文ミスによって、不良在庫を作ったとする。
本当は・・・
・こんなに不良在庫を作りやがって、赤字じゃないか。
・私が部長に叱られるじゃないか。
などと、マイナス思考が頭にふつふつと自動生成されていく。
そこに至る思考はごく自然なもので、短絡的である。
その思考は怒りであり、ストレスとなり、精神衛生上非常によろしくない。
ではどうしたらいいか。
これは、考えようによってはそれだけ多くの受注をしたということではないか。
部下「不良在庫を作ってしまいました。」私「あの難しい顧客からこんなの大量の注文を受けたのか。すごいなー、私が担当の時代では無理だった。それほど君は信頼されているんだな。」 とほめる事も出来るのではないか。
しかし、自然で楽な思考を敢えて、打消し、ほめるという思考の転換をするという事は
思っているよりもずっと困難だ。
波の流れを止め、変えるということ。
自分の弱さを認め、改めるということ。
それはまさに自分自身の心を磨くという、修行なのである。
マザーテレサの言葉より・・・
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
逆説的にはいい運命は、いい思考からという事になる。
いい思考を身につけたいのもです。